シリーズ偉人たち

「やればできる」精神で、ニュートリノ天文学を創始

小柴昌俊  1926年 ~ 2020年

「少年時代に育まれた不屈の精神

 岐阜県飛騨市に素粒子観測施設「カミオカンデ」を創設し、太陽系外から飛来する素粒子ニュートリノを初めて検出して、2002年にノーベル物理学賞に輝いた小柴昌俊博士。その人生は波乱に富んでいます。
 愛知県豊橋市で軍人の子として生まれ、翌年に東京へ転居しますが3歳で母を亡くし、小学5年時には父の満州赴任に伴い、神奈川県横須賀市の伯父に預けられます。そして、中学1年時にポリオウイルスに感染して小児麻痺を発症し、両手足の自由を失います。懸命なリハビリで運動機能をほぼ回復しますが、この経験で胸に刻んだのが「他人に甘えることなく自分の力で何とかする」という姿勢でした。
 入院中に担任の先生から『物理学はいかにつくられたか』(アインシュタイン著)という大著を贈られ、物理学と出会いますが、内容が難しくさほど興味が持てませんでした。そして、1945年春に旧制一高(東京大学の予科)に進学したものの、空襲や敗戦後の混乱の中で家計を助けるため、家庭教師や港の荷揚げ作業など幾つものアルバイトに明け暮れました。

教授の言葉に発奮し物理学科へ

 物理学へ進むきっかけは、学生寮の風呂場で耳にした教授の立ち話でした。「小柴は物理の出来が悪い。哲学か文学ならまだしも最難関の物理には進めない」。これを聞いた小柴青年は、天性の負けず嫌いに火が点き、同級生の協力を得て猛勉強し、東京大学理学部物理学科へ進学しました。
 しかし、大学での成績は「物理学実験」以外は振るいません。それでもめげず朝永振一郎博士から推薦状を取り付け、米国ロチェスター大学に留学。「宇宙線中の高エネルギー現象」の研究でみごと博士号を取得。そして、シカゴ大学の研究員を経て東大に戻り、1970年に理学部教授に就任します。
 転機が訪れたのは8年後のこと。研究仲間から「理論では予言されているが観測されていない“陽子崩壊”という現象を確認できる実験装置はできないか?」と頼まれました。すると小柴博士は一晩で概念図を描き上げます。実は装置の構想を20年前から温めていたのです。それは「地下1,000mに巨大な水槽を設置し、飛来する素粒子が水中の電子にぶつかると光を発するようにして光センサーで解析する」というものでした。

カミオカンデを立ち上げニュートリノを検出※

 やがて小柴博士の構想は現実となります。 1979年に神岡鉱山跡の地下に巨大な観測装置「カミオカンデ」の建設が始まり1983年から観測が始まりました。指揮を執った小柴博士は、ここでも数々のエピソードを残しています。
 装置の心臓部である光センサーの開発では、浜松ホトニクスの社長に直談判し、最高感度の光電子増倍管の開発を依頼したうえ、「国民の血税を使うのだからコストは極力抑える」と価格を半値以下に値切ったのです。また、観測を始めて3カ月後、陽子崩壊の観測が難しいと見るや「太陽が放出するニュートリノ検出」にも対応できるよう装置の大改造を決意し、感度を飛躍的に向上させたのです。
 そして、1987年2月に17万光年かなたの大マゼラン星雲から飛来した11個のニュートリノを世界で初めて検出しました。それは小柴博士が定年退官するわずか1カ月前のことでした。
※当会ホームページのシープレス106号「スーパーカミオカンデ」参照。

「やれば、できる」精神を貫いた生涯

 その後、カミオカンデは太陽と大気からのニュートリノも検出し、ニュートリノのふるまいから宇宙誕生の秘密を探る「ニュートリノ天文学」の研究拠点となります。その開拓者こそが小柴博士でした。研究は弟子たちに受け継がれ、後継機のスーパーカミオカンデを駆使してニュートリノに質量があることを実証した梶田隆章教授が、2015年にノーベル物理学賞を受賞するなど成果を重ねています。
 小柴博士は、気さくな人柄ながら研究には極めて厳しく、人を巻き込む力や交渉に長けていたそうです。そして、日頃から「いつかやり遂げる研究の卵を3つか4つ抱えて考え続けなさい」と説きました。そこには自ら逆境を跳ね返しながら前進し続けた「やれば、できる」精神が息づいています。

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