シリーズ偉人たち

ニュートリノの命名者にして、原子力時代の幕を開けた男

エンリコ・フェルミ 1901~1954

20世紀とともに出現した稀代の天才

天才がひしめく物理学の世界で、ケタ違いの才を発揮したのがイタリアのエンリコ・フェルミです。その名前は、理論はもちろん発見した粒子や元素、果ては小惑星にまで刻まれています。1901年、ローマに生まれ、高等師範学校で物理学を学んだ後、26歳でローマ大学の理論物理学教授に就任。その数年後、オーストリアの物理学者パウリが、原子核がベータ線を出しながら崩壊する時、エネルギーが消えてしまう現象を「電気を帯びずに飛び出す未知の粒子があるから」という説を唱え、この粒子を「ニュートロン(中性子)」と名付けます。

「ニュートロン」から「ニュートリノ」へ

フェルミは、この説に基づいて研究を始め、ベータ崩壊の理論を構築。しかし、1932年にチャドウィックが今日でいう中性子を発見したため、未知の粒子に新たな名前をつけ直す必要がありました。そこでフェルミは「ニュートリノ」と命名しました。これは電気を帯びない中性を意味する「ニュートラル」とイタリア語で小さいという意味の「イノ」との合成語です。そして1933年に「ベータ崩壊は4種類の粒子(中性子・陽子・電子・ニュートリノ)が相互に作用して生じる」という理論を権威あるネイチャー誌に投稿しました。ところが「論文が推測的」と評されて掲載を拒否されてしまいます。後にネイチャー誌は「この論文審査は、創刊以来の大きなミスだっだ」と認めることになります。

ノーベル賞の授賞式からアメリカへ亡命

フェルミは理論だけでなく実験でも金字塔を打ち立てます。自然界の元素に中性子を照射して40種以上の人工的な放射性同位元素を生成。さらに、高速の中性子が他の原子核に衝突を繰り返すと速度が遅くなって核反応がしやすくなる「熱中性子」も発見したのです。
この成果はノーベル物理学賞へと結実しますが、1938年12月、授賞式に出席するとフェルミ一家はそのままアメリカへ亡命します。母国がムッソリーニ政権のため、ユダヤ人の妻への迫害を恐れたからでした。そして渡米直後の彼が耳にしたのは、ナチス政権下のドイツで、オットーらがウランと中性子線による「核分裂」を発見したニュースでした。

「イタリア人航海士が新世界へ上陸した」

ニュースを受けて科学者たちが核分裂の研究を始めると、連鎖反応で莫大なエネルギーを発する原子爆弾の製造が可能な事がわかりました。科学先進国のドイツが先に開発すれば戦争の主導権を握るのは明らかです。
危機感を募らせた政府は、全米の科学者を招集して秘密の国家プロジェクトを立ち上げ、フェルミはその一員として燃料を生成する原子炉の設計に没頭します。そして、シカゴ大学フットボール競技場の観客席下に黒鉛ブロックを積み上げた実験炉「シカゴ・パイル1号」を組み立て、1942年12月2日、初臨界に成功。ワシントンに「イタリア人航海士が新世界へ上陸した」という暗号電が発せられました。
その後、フェルミは爆弾開発のマンハッタン計画でも重要な役割を担いましたが、水素爆弾の開発には倫理的な観点から反対しました。アメリカ物理学会の会長に就任後の1954年に末期のがんに冒されていると宣言されます。しかし、フェルミは病床でもストップウォッチを手に点滴が落ちる間隔を測り、流速を計算していたそうです。

一覧へ

C-pressのお申し込み
無料でご自宅までお届けします

エネルギー、原子力、放射線のタイムリーな
話題をメインテーマとしたPR誌。年3回発行。

詳しくはこちら